五匹のサル、檻(おり)、バナナ、梯子(はしご)、そして「ホース」を使った実験があった。

五匹のサルは檻の中に閉じ込められていた。その檻の中では、天井からバナナがぶら下がっていた。そして、サルたちにはラッキーなことに(本当はラッキーなように見えるだけだが)、バナナの真下にハシゴが設置されていた。誰もが予想する通り、すぐに一匹のサルがバナナを目指してハシゴに向かって走っていった。ところが、そのサルがハシゴに登ろうとすると、まるでサディストのような科学者がホースを使って凍るように冷たい水をサルに浴びせた。さらに、ハシゴを登ろうとしたサルだけではなく、それを見ていた他の四匹のサルも、この冷たい水を浴びることになった。

二匹目の別のサルがハシゴに登ろうとすると、そのサディストは再び冷水を浴びせた。他の四匹のサルにもである。

三匹目のサルが登ろうとした時にも。

懲りない(もしくはバカな)四匹目のサルが同じことをした時にも。

 

そして、サルたちはようやく学んだ。「バナナがあろうとなかろうと、あのハシゴには二度と登ってはいけない」と。

 

檻の様子を眺めていたサディストはもっと楽しんでみよう、つまり、もっと実験をしようとした。檻の中のサルを一匹、檻のそとの新しいサルと入れ替えてみた。当然、新入りのサルはバナナを見つけ、「バナナを取りに行かないなんて、なんてマヌケなヤツらだ」と思っただろう。そして、新入りのサルはハシゴを登り始めた。すると、面白いことが起きた。冷水を浴びた他の四匹のサルたちは、新入りサルに突進し、攻撃を加えたのだ。この結果、冷水の恐ろしさを知らないラッキーな新入りのサルでも、あることを理解した。「バナナがあってもなくても、このハシゴに登ってはいけないんだ」と。

 

さらに、檻のそとの冷水を知らないサル一匹と、檻の中の冷水を知るサルを入れ替えてみせた。すると、同じようなことが再び起きた。新入りサルはバナナを取ろうとハシゴに向かっていき、他のサルたちがその新入りを攻撃した。そして、この新入りサルもハシゴには二度と登ろうとしなくなった。ここで着目すべき点がある。さっき入ったばかりの一匹目の新入りサルも、攻撃に加わったのだ。一度も冷水を浴びていないし、冷水のことなんか一切知らないのに、他のサルと同じくらい激しく攻撃に没頭した。

 

同じことをもう一回やってみた。三匹目の新入りサルを入れ替えても、やはり同じことが起きた。

四匹目も同様である。

そして、ついに檻の中のすべてのサルが入れ替わった。檻の中は、冷水を浴びたことも、その仕組みも全く知らないサルだけになった。

そして、さらにもう一匹サルを入れ替えてみた。すると、ハシゴに登ろうとして、やはり他のサルから攻撃を受けた。この新入りサルは他のサルたちに向き直って、こんな質問をした。「バナナを取ろうとしただけなのに、なんで攻撃するんだ?」。

他のサルたちは、「おや?」と思い、手を止めてお互いを見つめ合った。そして肩をすくめて、こう答えた。「知らないね。だけど、それがここでのやり方なんだ」と。

 

これは「ヤバい経営学(Business exposed)」のIntroductionからの引用です。みなさんはこの実験をどのように見たでしょうか? モンキーストーリー(バカなヤツらの話し)だと感じられたでしょうか?

この筆者の口ぶりからはどうも、読者にそのような印象を与えるようにやや茶化しているような言い回しも見受けられますが、この本を少し読み進めると、実際には世界有数の大手企業でさえも、さまざまな場面でこのような現象が見られることが紹介されています。

 

わたしはかなり神経質なところがあり、この実験にはいくつかの疑問を持っています。まず、どこの大学とか研究所が行った実験なのかが書かれていないので、若干信ぴょう性が疑われます。

まあ、かなり細かいところまで書かれているので、それなりに信頼性のある論文にまとめられているだと思いますが...

実験の信頼性についてはさておき、わたしがもっとも気になっているのは、果たしてサルはサルなりの「言語」で「冷水」もしくは「冷水を浴びることの苦痛」をどれくらい伝えられるのか、あるいはまったく伝えられないのかという点です。

もし、実際には、はっきりと「冷水」と伝えられないまでも、ハシゴに登ったら「ここにいる全員がツラい目にあうぞ」という意味の「警告」を発しているのかもしれないのではないだろうか? その「警告」を無視して、ハシゴに登ろうとするから攻撃されるのではないだろうか?

 

サル語の「伝達力」がどれくらいのものなのか、という問題についてもまたさておき、一度も冷水を浴びてないサルでさえも、「ハシゴに登ってはいけない」という共同体としてのルールをしっかりと新入りにまで伝達できるということは、実はこれはサルが何世代にもわたって種を存続することを可能にするために進化して獲得した、優れた能力なのかもしれない、なんてことを考えたりもします。

バカなヤツらの話しだなんてとんでもないことで、実は動物の進化の過程での「高度な能力」なのかもしれません。

 

 

先日、妻が近所のママ友とおしゃべりしていたとき、こんな話を聞いたそうです。

「小学3年生の娘が宿題をやらないときは、宿題をやるまでご飯を食べさせない。ときどき大泣きしても、それでもご飯は食べさせない」のだとか…

 

うーん、これはヒドい話ですよね。でも、実はけっこうよくあることなんですかね? ネットで調べたところでは、日本全国あちこちで起こっているような印象を受けました。

 

わたしは個人的には、現代の教育については、完全に時代遅れで、パソコンやタブレットを使って、アプリやウェブサイトなどを駆使すれば、非常に低価格で効果的な教育を実現することは容易だと考えています。

ただ、あまりにも長い間、画一的な教育を続けてきた日本社会では、たとえば「宿題をやらない」というルールを破れば、親は容赦なく子供を攻撃するように社会的な慣習として、しっかりと教訓が伝達されているため、身の回りにあるもっと効率のいいものが目に入らないのです。

 

これを書いているのはちょうど夏休み時期ということもあり、街のあちこちに「夏期講習」の広告が目につきます。わたしの眼には、それらが「恐ろしいほど高額な費用がかかるにも関わらず、ほとんど成績があがらない」あるいは「成績が上がってランクの高い大学に入ったからと行って、いい仕事ができるとは限らない」まさに「モンキーストーリー」に見えてならないのです。

 

宿題をやらないからといって、ご飯をお預けにされている子供、夏の楽しい日々を、塾の教室に監禁されている学生を思うと胸が痛いです。

 

とはいえ、わたしにはこの「モンキーストーリー」はサルそして人類が獲得した重要な能力のようにも思われるのです。やや過剰反応のようにも見えますが、そうして共同体として危険を回避してきた歴史があるのだと思います。

 

うちの娘はようやく3歳4ヶ月となりました(2017年8月現在)。

かなり英語が話せるようになってきたので、わたしとしてはかなり安心しているのですが、それでも、多くのサル、いや親御さんがたにとって、新しい手法を取り入れても、社会的な罰を受けるようなことがないと確信させられるほどの成果ではないのだと、このごろつくづく思います。

 

焦らず、自分なりに新しい手法を磨いていこうと思う今日このごろ。

 

(2017年11月追記)

「出身校を伏せて面接」も 世界4大会計事務所が人材採用で重視する能力とは

会社でヒマなときにネットサーフィンしていると、たまたまこんな記事を見つけました。

 

 2008年と大きく異なるのは求人側のアプローチである。テクノロジーに精通した人材確保が必須となる新たな潮流に加え、社会的流動性や多様化は人材の領域にも押しよせている。「高学歴者ならば仕事もできる」というひと昔前までの手法は、最早通用しない時代だ。

そこで「Big Four」はこれまでの学歴に重点を置いた評価法を完全にとりやめ、代わりに「学生生活をとおして何を達成したか」で採用を決定するという手法に切り替えた。こうすることでコミュニケーション能力、問題解決能力に優れ、商業意識の高い人材を探しだしやすくなるとの判断だ。

(中略)

「高学歴=有力候補者」という偏見を排除するため、面接官には応募者の出身大学・学校を伝えないという大胆な面接法に切り替えた。さらには、多様性を高める目的で応募者の名前を非公開にすることも検討中だという。
(中略)
“Big Four”「Big Four」を含む多くの企業が求めているのは、エンプロイアビリティに長けた即戦力と持続性、協調性のある人材だ。責任感・チームワーク・積極性・成長意欲・目標指向などが、学力そのものよりも重視される時代に移行しつつある。

 

久しぶりにスタンダール「パルムの僧院」を最初から読んでみたところ、当時のモンキー・ストーリーが描かれていて、非常に興味深かったので、紹介したいと思います。

 

1796年のミラノ

 1796年5月15日ボナパルト将軍は、ロジ橋を突破した若い軍隊を率いてミラノに入った。彼らはかくも長い世紀を経たのち、カエサルとアレクサンドロスがようやくその後継者を得たことを、世界に知らせたばかりであった。

 以来数カ月、イタリアが目撃した勇気と天才の奇蹟は、眠っていた人民を呼び覚ました。フランス軍が着く1週間前まで、ミラノ人は彼らを王皇帝陛下(訳注オーストリア王、当時まだ神聖ローマ帝国の名目が残っていた)の軍隊の至るところ、つねに遁走を続ける盗賊の一団だと信じ込んでいた。少なくともそれは汚い紙に印刷したてのひら大の小新聞が、週に3回繰り返し説いたところであった。

 中世には共和国市民たるロンバルジア人は、フランス人に劣らぬ勇気を示し、代々のドイツ皇帝にその町を跡形もなく破壊されてしまった。忠良なる臣民となって以来、その大切な仕事はといえば、貴族か金持ちの娘の婚礼にあたって、バラ色の薄絹のハンカチにソネットを印刷するぐらいなものだった。この一生の大事件から2,3年経つと、若い娘は扈従(こしょう)騎士を持つようになる。どうかすると夫の家が指定した扈従騎士の名が、結婚契約書の中で名誉ある位置を占めていたりした。こういう柔弱な風習ほど、フランス軍の不意の到着が巻き起こした深い感動から遠いものはない。まもなく新しい情熱的な風習が起こった。1796年5月15日人民は、みなこれまで尊敬していたものがすべてこの上もなく滑稽であり、どうかすると汚らわしいことを悟った。オーストリアの最後の連隊が退散するとともに、古い思想は地に落ちた。命を賭けることが流行りだした。幾世紀の気の抜けた感情のあとで、今や幸福になるためには真の愛をもって祖国を愛し、英雄的な行為をもとめなければならないことを知った。

(中略)

50年来『百科全書』とヴォルテールがフランスで開花していたあいだに、僧侶は善良なミラノ人に、読むことを習い、または何かを学ぶのはまったく無益なわざであり、ただ司祭に規則正しくお布施を払い、自分の小さな罪を包まず告解さえしていれば、天国で相当な位置が得られると叫び続けていた。かつてあれほど獰猛かつ賢明だったこの人民を、まったくの腑抜けとするために、オーストリアは軍隊に壮丁を送らずに済む特権を安く売りつけた。

 

200年以上も前の出来事であり、ヨーロッパの歴史に疎い人にとっては、ミラノ人とかロンバルジア人とか言われてもなんのことやら?となってしまうでしょう。わたしの分かっている範囲でできるだけ噛み砕いてみようと思います。

 

このスタンダールという作者自身もナポレオン軍に従軍した経験があり、その体験がもとになって書かれた小説なので、ナポレオンを偉大な英雄として讃える熱い文章となっていますね。いまだに日本でもナポレオンを稀代の英雄として語る風潮が強いように見受けられます。が、ものごとの一面に眼を奪われないように。

 

ここで芥川龍之介「侏儒の言葉」の一節を紹介しておきます。

 古来政治的天才とは民衆の意志を彼自身の意志とするもののように思われていた。が、これは正反対であろう。寧ろ政治的天才とは彼自身の意志を民衆の意志とするもののことを云うのである。少くとも民衆の意志であるかのように信ぜしめるものを云うのである。この故に政治的天才は俳優的天才を伴うらしい。ナポレオンは「荘厳と滑稽との差は僅かに一歩である」と云った。この言葉は帝王の言葉と云うよりも名優の言葉にふさわしそうである。

 

また、とくに「祖国を愛して戦うこと、命を賭けることが流行りだした」というのは、もしかすると現代でもブラック企業でこき使われ、あと数十年もの人生をつまらない労働に費やさなければならないのか、と絶望している日本人にとっても、ともすると魅力的に聞こえてしまいかねない一節ではありますが、歴史としてはこのあと、愛国主義の連鎖反応から世界大戦が巻き起こり、とてつもない悲劇が繰り広げられたことを忘れてはいけません。

スタンダールの文章にも登場するヴォルテールが語ったように「戦争の唯一の原因は"愛"」なのです。うーん、まあ、世間では愛がすべてを解決するというような宣伝文句が溢れていて、あまりにニヒルすぎますかね。

 

平和ボケした日本では、愛が戦争を引き起こすというのが、どういうことなのかを想像できない人も多いでしょうから、この点には深く立ち入らず、教育についての「愛」について考えてみたいと思います。

 

当時のイタリアでは、神聖ローマ帝国に忠誠を示すことにばかり、心を砕いていたために、僧侶たちは人々に何かを学ぶことなんて無益で、ともかくお布施を払って、懺悔していれば、死んだあと天国で楽しく暮らせますよと説いていたそうですね。さすがに現代の日本では、なにも学ばなければ、遅かれ早かれ露頭に迷うことになるという考えが浸透しています。まあ、パワースポットやらスピリチュアルやらが相変わらず人気を集めているようなので、むしろ大人になるほど、当時のイタリア人に近づいていっている人も多いようですね...

ただ、さすがに、子供がなにも学ばなければヤバいことになるという強迫観念を持っている人がほとんどです。そこでたくさんのお金を払って、子供を「塾」という牢獄に押し込めようとするわけですね。しかし、これは汗水流して働いて稼いだなけなしのカネを子供に注ぎ込んでいるわけで、一見「愛」に見えます。が、モンテッソーリ女史の言葉を借りるなら、「おたまじゃくしを水から引き上げて、カエルのマネをさせている」子供の能力が伸びるのを妨げる行為に他ならないのです。

 

「塾」にお布施を払い、子供に「お受験」という聖書を暗唱させれば、天国で楽しく暮らせるというのでしょうか?

グローバル・エコノミーという過酷な世界で生きていくための能力が身につくというのでしょうか?

 

世界の優良企業は今、

テクノロジーに精通した人材、コミュニケーション能力、問題解決能力に優れ、商業意識の高い人材、持続性、協調性のある人材を求めているのです。責任感・チームワーク・積極性・成長意欲・目標指向などが塾での「お勉強」で身につくというのでしょうか?

 

イギリス英語の番組なので、ちょっとわたしには聞き取りにくいのですが、どうやら最近、イギリス人が中国人流のスパルタ教育を取り入れているようです... うーん、イギリス王室はモンテッソーリ教育を取り入れているはずなのに...

 

わたしの妻は中国人で、最近は近所に住んでいる中国人のママ友もたくさんできました。うちの娘が英語を話すとみんな興味を示すそうですが、妻がYoutubeなどを使って低料金で簡単に、子供に英語を身につけさせる手法を教えても、だれもやろうとはしないそうです。

まあ、日本人のママ友もみんな、「いいねぇ」とは言うのですが、だれも取り入れません。日本人のママ友に対しては、わたしの妻の日本語がいまひとつなのでうまく伝えられていないのかな?と思っていたのですが、中国人のママ友たちが取り入れないのには、もっと深い心理的な障壁が存在しているようです。

 

最近わたしは、夏目漱石「三四郎」を読みなおしています。これで3回目になるのですが、読むたびに面白いと感じるところが変わるのが、われながら面白いです。まあそれはさておき、今回は三四郎と与次郎のこんなやりとりが心にしみました。

 

 それから当分のあいだ三四郎は毎日学校へ通って、律義に講義を聞いた。必修課目以外のものへも時々出席してみた。それでも、まだもの足りない。そこでついには専攻課目にまるで縁故のないものまでへもおりおりは顔を出した。しかしたいていは二度か三度でやめてしまった。一か月と続いたのは少しもなかった。それでも平均一週に約四十時間ほどになる。いかな勤勉な三四郎にも四十時間はちと多すぎる。三四郎はたえず一種の圧迫を感じていた。しかるにもの足りない。三四郎は楽しまなくなった。
 ある日佐々木与次郎に会ってその話をすると、与次郎は四十時間と聞いて、目を丸くして、「ばかばか」と言ったが、「下宿屋のまずい飯を一日に十ぺん食ったらもの足りるようになるか考えてみろ」といきなり警句でもって三四郎をどやしつけた。三四郎はすぐさま恐れ入って、「どうしたらよかろう」と相談をかけた。
「電車に乗るがいい」と与次郎が言った。三四郎は何か寓意でもあることと思って、しばらく考えてみたが、べつにこれという思案も浮かばないので、
「本当の電車か」と聞き直した。その時与次郎はげらげら笑って、
「電車に乗って、東京を十五、六ぺん乗り回しているうちにはおのずからもの足りるようになるさ」と言う。
「なぜ」
「なぜって、そう、生きてる頭を、死んだ講義で封じ込めちゃ、助からない。外へ出て風を入れるさ。その上にもの足りる工夫はいくらでもあるが、まあ電車が一番の初歩でかつもっとも軽便だ」
 その日の夕方、与次郎は三四郎を拉して、四丁目から電車に乗って、新橋へ行って、新橋からまた引き返して、日本橋へ来て、そこで降りて、
「どうだ」と聞いた。
 次に大通りから細い横町へ曲がって、平の家という看板のある料理屋へ上がって、晩飯を食って酒を飲んだ。そこの下女はみんな京都弁を使う。はなはだ纏綿している。表へ出た与次郎は赤い顔をして、また
「どうだ」と聞いた。
 次に本場の寄席へ連れて行ってやると言って、また細い横町へはいって、木原店という寄席を上がった。ここで小さんという落語家を聞いた。十時過ぎ通りへ出た与次郎は、また
「どうだ」と聞いた。
 三四郎は物足りたとは答えなかった。しかしまんざらもの足りない心持ちもしなかった。すると与次郎は大いに小さん論を始めた。
 小さんは天才である。あんな芸術家はめったに出るものじゃない。いつでも聞けると思うから安っぽい感じがして、はなはだ気の毒だ。じつは彼と時を同じゅうして生きている我々はたいへんなしあわせである。今から少しまえに生まれても小さんは聞けない。少しおくれても同様だ。――円遊もうまい。しかし小さんとは趣が違っている。円遊のふんした太鼓持は、太鼓持になった円遊だからおもしろいので、小さんのやる太鼓持は、小さんを離れた太鼓持だからおもしろい。円遊の演ずる人物から円遊を隠せば、人物がまるで消滅してしまう。小さんの演ずる人物から、いくら小さんを隠したって、人物は活発溌地に躍動するばかりだ。そこがえらい。
 与次郎はこんなことを言って、また
「どうだ」と聞いた。実をいうと三四郎には小さんの味わいがよくわからなかった。そのうえ円遊なるものはいまだかつて聞いたことがない。したがって与次郎の説の当否は判定しにくい。しかしその比較のほとんど文学的といいうるほどに要領を得たには感服した。
 高等学校の前で別れる時、三四郎は、
「ありがとう、大いにもの足りた」と礼を述べた。すると与次郎は、
「これからさきは図書館でなくっちゃもの足りない」と言って片町の方へ曲がってしまった。この一言で三四郎ははじめて図書館にはいることを知った。

 

日本でも昔はスパルタ教育で、そうして高度経済成長期にはソニー、ホンダ、トヨタ、シャープ、東芝、松下などなど、日本企業が大いに活躍したではないかとおっしゃるかもしれません。はい、それはわたしもまったくそのとおりだと思います。が、明治以降、国全体が緊張感に包まれていた当時なら、スパルタ教育によって、多くの生徒たちは落ちこぼれて自尊心を傷つけられても、ごく一部の従順な学生が高度な学問を修めれば、それでうまくいった世の中なら、悪くはなかったと考えますが、それをこれからもずっと続けていくというのは、「この上もなく滑稽であり、どうかすると汚らわしいこと」だと思われてならないのです。

 

与次郎とのやりとりは、この小説の中でもとても面白い部分ですが、わたしは野々宮くんとのやりとりに興味を覚えました。

 

 部屋の中を見回すとまん中に大きな長い樫のテーブルが置いてある。その上にはなんだかこみいった、太い針金だらけの器械が乗っかって、そのわきに大きなガラスの鉢に水が入れてある。そのほかにやすりとナイフと襟飾りが一つ落ちている。最後に向こうのすみを見ると、三尺ぐらいの花崗石の台の上に、福神漬の缶ほどな複雑な器械が乗せてある。三四郎はこの缶の横っ腹にあいている二つの穴に目をつけた。穴が蟒蛇の目玉のように光っている。野々宮君は笑いながら光るでしょうと言った。そうして、こういう説明をしてくれた。
「昼間のうちに、あんな準備をしておいて、夜になって、交通その他の活動が鈍くなるころに、この静かな暗い穴倉で、望遠鏡の中から、あの目玉のようなものをのぞくのです。そうして光線の圧力を試験する。今年の正月ごろからとりかかったが、装置がなかなかめんどうなのでまだ思うような結果が出てきません。夏は比較的こらえやすいが、寒夜になると、たいへんしのぎにくい。外套を着て襟巻をしても冷たくてやりきれない。……」
 三四郎は大いに驚いた。驚くとともに光線にどんな圧力があって、その圧力がどんな役に立つんだか、まったく要領を得るに苦しんだ。
 その時野々宮君は三四郎に、「のぞいてごらんなさい」と勧めた。三四郎はおもしろ半分、石の台の二、三間手前にある望遠鏡のそばへ行って右の目をあてがったが、なんにも見えない。野々宮君は「どうです、見えますか」と聞く。「いっこう見えません」と答えると、「うんまだ蓋が取らずにあった」と言いながら、椅子を立って望遠鏡の先にかぶせてあるものを除けてくれた。
 見ると、ただ輪郭のぼんやりした明るいなかに、物差しの度盛りがある。下に2の字が出た。野々宮君がまた「どうです」と聞いた。「2の字が見えます」と言うと、「いまに動きます」と言いながら向こうへ回って何かしているようであった。
 やがて度盛りが明るいなかで動きだした。2が消えた。あとから3が出る。そのあとから4が出る。5が出る。とうとう10まで出た。すると度盛りがまた逆に動きだした。10が消え、9が消え、8から7、7から6と順々に1まで来てとまった。野々宮君はまた「どうです」と言う。三四郎は驚いて、望遠鏡から目を放してしまった。度盛りの意味を聞く気にもならない。
 丁寧に礼を述べて穴倉を上がって、人の通る所へ出て見ると世の中はまだかんかんしている。暑いけれども深い息をした。西の方へ傾いた日が斜めに広い坂を照らして、坂の上の両側にある工科の建築のガラス窓が燃えるように輝いている。空は深く澄んで、澄んだなかに、西の果から焼ける火の炎が、薄赤く吹き返してきて、三四郎の頭の上までほてっているように思われた。横に照りつける日を半分背中に受けて、三四郎は左の森の中へはいった。その森も同じ夕日を半分背中に受けている。黒ずんだ青い葉と葉のあいだは染めたように赤い。太い欅の幹で日暮らしが鳴いている。三四郎は池のそばへ来てしゃがんだ。
 非常に静かである。電車の音もしない。赤門の前を通るはずの電車は、大学の抗議で小石川を回ることになったと国にいる時分新聞で見たことがある。三四郎は池のはたにしゃがみながら、ふとこの事件を思い出した。電車さえ通さないという大学はよほど社会と離れている。
 たまたまその中にはいってみると、穴倉の下で半年余りも光線の圧力の試験をしている野々宮君のような人もいる。野々宮君はすこぶる質素な服装をして、外で会えば電燈会社の技手くらいな格である。それで穴倉の底を根拠地として欣然とたゆまずに研究を専念にやっているから偉い。しかし望遠鏡の中の度盛りがいくら動いたって現実世界と交渉のないのは明らかである。野々宮君は生涯現実世界と接触する気がないのかもしれない。要するにこの静かな空気を呼吸するから、おのずからああいう気分にもなれるのだろう。自分もいっそのこと気を散らさずに、生きた世の中と関係のない生涯を送ってみようかしらん。

 

三四郎は理系の分野にはまったく疎くて、野々宮くんを単なる変人のように思っていました。しかし、しばらくすると野々宮くんは、一見隠遁生活のように思える研究者の暮らしをこんなふうに語ってくれます。

 

「きょうは少し装置が狂ったので晩の実験はやめだ。これから本郷の方を散歩して帰ろうと思うが、君どうです、いっしょに歩きませんか」
 三四郎は快く応じた。二人で坂を上がって、丘の上へ出た。野々宮君はさっき女の立っていたあたりでちょっととまって、向こうの青い木立のあいだから見える赤い建物と、崖の高いわりに、水の落ちた池をいちめんに見渡して、
「ちょっといい景色でしょう。あの建築の角度のところだけが少し出ている。木のあいだから。ね。いいでしょう。君気がついていますか。あの建物はなかなかうまくできていますよ。工科もよくできてるがこのほうがうまいですね」
 三四郎は野々宮君の鑑賞力に少々驚いた。実をいうと自分にはどっちがいいかまるでわからないのである。そこで今度は三四郎のほうが、はあ、はあと言い出した。
「それから、この木と水の感じがね。――たいしたものじゃないが、なにしろ東京のまん中にあるんだから――静かでしょう。こういう所でないと学問をやるにはいけませんね。近ごろは東京があまりやかましくなりすぎて困る。これが御殿」と歩きだしながら、左手の建物をさしてみせる。「教授会をやる所です。うむなに、ぼくなんか出ないでいいのです。ぼくは穴倉生活をやっていればすむのです。近ごろの学問は非常な勢いで動いているので、少しゆだんすると、すぐ取り残されてしまう。人が見ると穴倉の中で冗談をしているようだが、これでもやっている当人の頭の中は劇烈に働いているんですよ。電車よりよっぽど激しく働いているかもしれない。だから夏でも旅行をするのが惜しくってね」と言いながら仰向いて大きな空を見た。空にはもう日の光が乏しい。
 青い空の静まり返った、上皮に白い薄雲が刷毛先でかき払ったあとのように、筋かいに長く浮いている。
「あれを知ってますか」と言う。三四郎は仰いで半透明の雲を見た。
「あれは、みんな雪の粉ですよ。こうやって下から見ると、ちっとも動いていない。しかしあれで地上に起こる颶風以上の速力で動いているんですよ。――君ラスキンを読みましたか」
 三四郎は憮然として読まないと答えた。野々宮君はただ
「そうですか」と言ったばかりである。しばらくしてから、
「この空を写生したらおもしろいですね。――原口にでも話してやろうかしら」と言った。三四郎はむろん原口という画工の名前を知らなかった。
 二人はベルツの銅像の前から枳殻寺の横を電車の通りへ出た。銅像の前で、この銅像はどうですかと聞かれて三四郎はまた弱った。表はたいへんにぎやかである。電車がしきりなしに通る。
「君電車はうるさくはないですか」とまた聞かれた。三四郎はうるさいよりすさまじいくらいである。しかしただ「ええ」と答えておいた。すると野々宮君は「ぼくもうるさい」と言った。しかしいっこううるさいようにもみえなかった。
「ぼくは車掌に教わらないと、一人で乗換えが自由にできない。この二、三年むやみにふえたのでね。便利になってかえって困る。ぼくの学問と同じことだ」と言って笑った。