マリア・モンテッソーリ女史の言葉

<親より子供がよく知っている>

(英国 1930年ごろ)

 

 気づかいお母さんのカエルが池の小さなおたまじゃくしに「水からあがって、新鮮な空気を吸い、みどりの芝生のうえで体を休めてごらん。そうすれば、みんな強く健康でかわいいカエルになれますよ。さあ、いっしょにおいで。ママが一番よく知っているから」と言ったと仮定します。この小さなおたまじゃくしは従順であろうとすれば、かならず死んでしまうでしょう。

 ところで、これはわたしたちが自分の子供を教育するときのやり方なのです。わたしたちは、子供をすぐれた人格者で、礼儀正しく、知的で有能な市民に育てたいと思うものです。そしてわたしたちは子供に「これをしなさい、それをしてはダメ」と言って、子供の間違いをなおすのに、多くの時間を使い、忍耐をします。「ママ、どうしてなの」と子供が聞くと、なぜ干渉してしまうかについてゆっくりと考えもしないで、「ママが一番よく知っているからよ」と答えて、子供を放っておきます。

 わたしたちはちょうど気づかいカエルと同じことをしているのですが、それが分かればいいのにと思います。わたしたちが形成しようとするこの小さな生命には、知性と人格を発達させるために、強制したり、しめつけたり、訂正したり、注意を与えたりする必要はありません。時間が来れば、おたまじゃくしがカエルになるのに”神がつくられた”自然が心を配ってくれるように自然は子供にも心を配ってくれます。

 「でも、子供を好き勝手にさせていいのですか。経験もなにもない子供は自分になにがもっともよいかをどうやって知ることが出来るのでしょう。お行儀を教えないと、子供が小さな野蛮人になるだろうということを考えてみてください」と言うでしょう。

 「あなたは子供に干渉しないで、一日でも好きなことをさせたことがありますか」とわたしは質問したいと思います。

 そのようにしてみてください。

 きっとびっくりなさるでしょう。子供がなにかに興味を持つようになるまで待って、そして観察してみてください。もしかすると子供は、あなたがカギをカギ穴のなかで回すのを見て、自分もやってみたいと思うかもしれません。また、子供は床を掃くのを手伝いたがります。あるいは、子供はきれいになった床の上に、小石で美しい模様を作りたがるかもしれません。普通の日だと、あなたは「邪魔をしないでおもちゃで遊びなさい」と言うでしょう。

 しかし今日は、子供にカギを渡し、床を掃くために小さなホウキを探し、床の上に小石の模様を作らせてみてください。そうすると、子供がどんなにそれをのことに夢中になるかお分かりになるはずです。子供は1,2回だけで満足せず、同じ簡単なことを内的衝動が満足するまで幾度も繰り返したがります。子供が本当に興味のあることをしている時、いたずらを全然しないということに驚かれるでしょう。堪忍袋の緒が切れて、干渉し、熱中しているのを邪魔すると、子供の集中現象と忍耐ーー自分自身に課している大切なレッスンーーを乱すことになります。子供は欲求不満を起こし、失望し、イライラするでしょう。そして子供は意識して悪いことを行い、うっぷんを晴らそうとするでしょう。

 子供の行儀の悪いのが直らなかったら、一体どんなわずらわしい、面倒なことが起こるでしょうか。わたしたちは子供のためにしつけをすると言い、たいていはそう信じています。しかし、子供のために最善だと考えていることが、しばしばわたしたちにもちょうど都合が良いのは、まことに奇妙なことです。わたしたちは成長したカエルに夢中になっていて、小さなおたまじゃくしが、おたまじゃくし固有の作業をしなければならないことーー男あるいは女の大人になる作業ーーを忘れてしまうのです。

 このようなことは小さなおたまじゃくしだけができる仕事です。わたしたちがしてあげられる最大の援助は、時期を待って、子供が特有のやり方で発達していけるために自由であるように心を配ることだけです。さもないと、わたしたちは子供の仕事を邪魔することになります。「ママが一番よく知っているのよ」と強情に主張し、子供の発達する知性と人格をわたしたちの尺度に従って、作ろうとすれば、子供の自己形成を破壊してしまうことになるでしょう。子供がまだ興味を感じていないものへ注意を惹こうとすれば、子供の集中力を奪ってしまう結果になります。そして、わたしたちがあまり強く言いすぎると、意地悪な子供になるでしょう。

 しかし、わたしたちが自分の振る舞いを180度転回させて、次のように自分に言い聞かせたらどうでしょうか。「小さな子供は自分で何がもっとも良いかを知っているのです。子供が害をこうむらないように、わたしたちは当然、警戒しなければなりません。そして、子供に大人の道を教える代わりに、子供が自分の生き方を自分で決めるために自由を与えましょう」と。よく観察すれば、わたしたちは子供のあり方について知ることができるでしょう。

 こうして多くの親をわずらわす責任問題についてわたしたちは新しい角度から考えるようになります。大人の考え方から演繹(えんえき、導き出すこと)する代わりに、子供から子供の道を学ぼうとするおおぜいの人たちは、発見したことについて驚いてしまいました。わたしたちは次の点で意見が一致します。いわゆる子供は自分たちの興味のある世界に生きていて、そこで行う作業は尊重されなければならないということです。なぜなら、多くの子供っぽい活動は大人の目には無意味に見えるかもしれませんが、自然は自然の目的のためにそれを使うからです。自然は骨や筋肉と同様に精神や人格を作るのです。

 みなさんが子供に差し伸べることのできる最大の援助は、子供特有の作業に子供が固有の方法で取り組むための自由を提供することです。なぜなら、こういう問題については、みなさんより子供のほうがよく知っているからです。

 

<子供の秘密>

(英国 1930年頃)

 

 ほとんどの大人は、子供が自分だけの秘密を持っていることに気づきません。子供が親になにかを隠したがっているかもしれないと考えるだけで怒ってしまう親をわたしは何人か知っています。

 小さな娘が一日中なにをしていたかを知りたくて、絶えず質問したり干渉したりする困った母親は、なぜ子供の性格がぜんぜん手に負えなくなったか分かりませんでした。それは、自分の秘密を守るという子供の無意識な努力以外のなにものでもないということを母親に言いますと、その母親はひどく気分を害しました。

 「秘密ですって!」とそのお母さんはあっけにとられて、「ジョンはわたしに何も秘密なんて持っていません、あの子がすることは何でもわたしも興味があるようにしていますし、あの子が大きくなったら、わたしを第一の親友だと思って、なんでも言ってくれると思っています」と言いました。

 母親がこんな態度を取ってばかりいると、子供の気まぐれな態度も直らないし、子供との間に超えることのできない溝が生じることを母親に説明するのに長い時間がかかりました。

 すこし鈍感な子どもだったら、ちょうど正反対の反応を示すかもしれません。鈍感な子供は個性がなく、まるで母親の木魂(こだま)のような存在です。このような子はどんなことにも協力的で、奉仕的で、愛嬌があり、よく話しますが、しかしまったく空っぽの存在です。秘密のない子供は個性を持たない大人に相当します。

 子供が持っている秘密はそれほど神秘的なものではありません。愚かな大人が子供の秘密を奪い取ろうとしても、それは誰にも説明できない、子供に固有の発達原理なのです。

 現在、みんながいろいろな事物の原因や理由を科学的に研究する努力を続けており、おおぜいの良心的な親は、ただ子供を問いただすことによって、子供を理解しようとします。しかし、子供の秘密を根ほり葉ほり聞き出すことによって、子供の気分は害され、良い結果が生まれることはないでしょう。子供がきれいな花を見て、その名前や色を知りたいとき、賢明な母親は、花はバラの花で、色は赤だと言います。母親は求められた時だけ助けることで子供は満足します。子供は理解し、もっと知りたければ自分のほうから質問するでしょう。しかし「お花の名前をどうして知りたいの」「どうして急に色に興味を持つの」と母親が子供に聞いても、子供はなにも返事が出来ないでしょう。子供は答えようとして、当惑してしまいます。母親は子供の秘密を探ろうとしました。子供は次に何かを知りたいとき、不愉快な質問をしない先生に尋ねるでしょうーーもちろんわたしたちの訓練を受けた先生に。たとえば「気まぐれなジョンちゃん」は、モンテッソーリ・スクールにやってきた最初の日、何をしたらいいのか分かりませんでした。なぜなら、誰も干渉したり質問したりしなかったからです。ジョンちゃんは、子供たちが作業している教材を眺め、数のビーズを取り出して、そして先生がそれをどう使うかを見せると、一人でやってみました。しばらくするとジョンちゃんはざらざらの砂文字板を先生の所へ持ってきて、いろいろ質問しました。 

 11時にジョンちゃんは大きなため息をついて、「今日はなんてたくさんのことをしたんだろう」と言いました。ジョンちゃんは確かに色々なことを少しずつやりました。次の日、ジョンちゃんは次から次へと教具に触って、それぞれの教具で少しずつ何かをしました。3日目に、ジョンちゃんは幾何図形に夢中になり、丸一日ずっと集中し、角や曲がっているところを指で触り、輪郭をなぞったりしていました。

 この日からジョンちゃんはいきいきして、作業中に集中現象を起こし、別人のようになりました。誰も邪魔をしなかったので、ジョンちゃんはモンテッソーリ・スクールでは気まぐれを見せなくなりました。ところで、家庭ではジョンちゃんはそんなに早く良くなりませんでしたので、わたしたちはジョンちゃんのお母さんにちょっと子供の家によってもらって作業している子供を観察するように頼みました。子供が何かをしているとき、助けてほしいと言うまで干渉しないことがどれだけ大切かをジョンちゃんのお母さんに説明しました。子供は作業に興味を持っている時、子供の小さな活動に危険がない限り、ちゃんと確実に自分を発達させているのです。子供は自分で理解できる新しい考えによって集中現象を起こし、自分で規律を身に着けているのです。 

 ある時期に、なにかに、あるいはある運動に、自分がどうして興味があるかということを子供は知りません。大切なのは、子供が興味を持ち、ちょうど体が成長するのと同じように精神も成長するのは自然だということです。それで、ある瞬間に子供が興味を持つ事柄こそ、子供の必要に答えているのです。

 

おすすめ動画のページでも紹介しましたが、日本棋院のジュニア囲碁クラブのサイトでも、保護者への注意点として一番大切なことは「いかに興味をもたせるか」「いかに興味を継続させるか」ではないでしょうかと書いてあります。

 

また、こんなことも書いてあります。

教える側からすれば自分の持っている知識はすべて与えたい、早く成長して欲しいと願うのは当然のことですが、口出しをし過ぎるとせっかくの芽をつぶしてしまいます。

知識を押しつけたり、手とり足とり教えていると、人の顔色を見い見い打つようになり、そのうち嫌になって離れていってしまいます。

「一つ教えると一つ興味を失う」と言った囲碁教師がいます。まさしく的を得た言葉で、教える側はじっと辛抱、我慢が必要です。

 

小学校、中学校へと進んだとき、しっかりと競争に勝てるような子になってほしい、という親の思いはごく自然なものです。しかし、それを本当に実現するためには、親の忍耐強さがもっとも求められているのです。

 

下に紹介する動画は、アメリカのシーザー・ミランという人気のドッグトレーナーです。子供の教育と犬のリハビリを、あたかも同列のように扱っているわたしの態度に腹を立てる人もいるでしょう。もちろん、わたしにだって、子供の教育と犬のリハビリが大きく違っていることは分かっています。なぜあえて、そのようなことをするかというと、多くの犬の飼い主が「犬を人間のように扱う」ことから問題を悪化させてしまうのですが、それが多くの親が「子供に大人の考え方を押し付けてしまう」ことから問題が生じるという点において、よく似ているからです。それはまさに、上のモンテッソーリ女史が「カエルの考えをおたまじゃくしに押し付ける」ことでおたまじゃくしを殺してしまうことになるというたとえ話を持ち出したのと同様なのです。

 

また、大人の都合に子供を押し込んで、無理強いすることをやめ、子供の脳の奥のほうで、いったい何が起こっているのかをじっくりと忍耐強く観察する以外に、有効な手段がないという点でも同様です。